1670 親に論文を見てもらう

勤務校の校長先生に、小論文を読んでいただいている。毎回本当に熱心にアドバイスをしてくださりありがたい。


校長先生のアドバイスの中の一つに親に読んでもらいなさいといものがあった。


全く教職に関係していない人に伝わるような文章で書けているか、教職に関係していない人が読んだらどう感じるか、そこを知ることが、論文を書く力を向上させるということだった。


なかなか恥ずかしいが、読んでもらうことにして、コメントをもらった。


親は、自分が予想している以上に色々と調べてくれて、アドバイスをくれた。昨日の朝お願いして、今日の朝にはコメントをくれた。


教員採用試験に1回で合格した人の小論文と自分の小論文の違いは何か、志望自治体がどんな人を求めているのかの視点からのアドバイスと、自分の小論文を読んだで、文章で伝わってくるもの、伝わってこないものなどの素直な感想を言ってくれた。


短時間で、こんなに調べて読んでくれて、コメントをくれたことがありがたい。


本当にいろんな人が応援してくれて、支えてくれている。


その人たちのためにも、自分のためにも頑張らないといけない。

1669 人の目に触れる文章を書く機会

思考帳を書き出して、自分の頭の中にあることを文字化している。


短文、箇条書き、単語レベルで書いているが、それでもだいぶ思考が整理されるし、そのフレーズの1つ1つを見るだけで、こんなことを考えているということが思い出せる。


2回目、3回目と見直すと単語をもとに別の単語が浮かんでくるなど、ウェビングマップのように広がっていく。


文章化するのはまだ少し難しいけど、短文から書いてみると、人の目に触れさせることのできる文になると思う。この文をつないでいくと、文章になる。


文章を書く時に、文章の書き方を学ぶべきだと思っていた。しかし、そうではなく、まずは自分がどう考えるのかを他者にわかるように文章としてアウトプットすることが大切だと気づいた。それがあって初めて、文章の書き方が生きるのだと思う。


SDKの原稿、教員採用試験の論文、各種レポート、全て人の目に触れる文章である。これらの人の目に触れる文章を書く機会が、自分自身の文章の書き方を見つめ直す機会になった。


文章を書くのは難しい。すっきりとしていて、誰が読んでも分かりやすい文章を書けるように、思考帳を活用して、少しずつ文章の書き方も勉強していこうと思う。


1668 受験票届く

教員採用試験の受験票が届いた。


今年は一次試験が免除なので、二次試験から。


多分、今までにないほどのいいチャンスだと思う。このチャンスに合格できる力をしっかりとつけて本番に臨みたい。


チャンスを掴むには準備が必要である。準備をしていないのに、結果が出るわけではない。


しっかりと覚悟をもって結果を出せる努力をしていく。

1667 13冊目『流浪の月』

2020年50冊読破目標の13冊目。

凪良ゆうさんの『流浪の月』(東京創元社 2019)読破。

おそらく、この本の中に出てくる更紗と文のような人は、現実社会では少数派だと思う。

『中途半端な優しさや理解が私を苦しめる。』

多数派の人が少数派の人に優しくしたり、理解しようとすることが悪いことでもない。むしろ、そういう優しさを持つ人がいることはいいことだと思う。

しかし、どれだけ少数派の人の真実に迫れるだろか。真実に迫れないでかけられる言葉や、優しい態度というのは、逆にその人を苦しめることがある。

『事実と真実は違う』

事実は外からでも見える。しかし、真実は当事者にならないとわからない。

事実しか見えないからこそ、優しさや理解が中途半端になることもあるのかもしれない。

だからといって、優しさや理解しようとすることを周りの人がやめてしまうと、それはそれで少数派が苦しくなる。

難しい。矛盾する。
少数派の人たちが求める理解や優しさは、多数派の人たちがいくら理解しようとしても、優しくあろうとしても無理なこともあるのかもしれない。それを知っていることが、本当の優しさや理解につながるのかもしれない。

それでも、少数派が多数派の優しさや理解をどう感じるかという視点からの想像力は得られたと思う。

【2020年本屋大賞 大賞受賞作】流浪の月

【2020年本屋大賞 大賞受賞作】流浪の月

1666 ステップが必要だが、時間がかかる

これまで、授業中にいくつもの発問をしてきた。しかし、生徒の反応を見ていると、ペンが動かない。空気が凍りつくことが何度もあった。


そのことから、発問づくりには次の2つのことが大切だと感じた。


①生徒が考えられる範囲と段階を理解すること

②1番問いたいことに対して答えられるよう、ステップを設けること


①は自分の感覚を生徒の感覚に近づけるということである。すると、どう問えばいいのかが変わる。この言葉、この表現ならわかるとか、考える視点をここに絞ると考えやすくなるとかを考えることである。例えば、「グラフを見て気づいたことを書きなさい」と問うのではなく、「グラフが表す割合の変化の仕方について気づいたことを書きなさい」というのでは、生徒の思考のしやすが違う。前者の発問よりも、校舎の発問の方が、何を見ればいいのかという視点が明確なので書きやすい。割合に着目して、それがどのように変化しているのかを書けばいいからである。何(どこ)をどのように見ればいいのかが明確にわかるため、気づきやすい。これを繰り返して、少しずつ生徒の中にグラフを見る視点をつくっていってあげると、単に「グラフを見て気づいたことを書きなさい」という指示だけでも書けるようになる。目の前の生徒によって、上で書いた2つの指示のどちらがいいかは変わるが、生徒の考えられる範囲と段階を理解できていないと、選択を間違え、発問した時に場が凍りついてしまう。


②について、これは最近気づいたことである。例えば、2つの折れ線グラフが交わっている資料があったとする。この資料を見て、「気づいたことを書きなさい」と問うのではなく、「Aのグラフの変化を見て気づいたことを書きなさい」→「Bのグラフの変化を見て気づいたことを書きなさい」→「AとBのグラフの変化の仕方を関連づけて変化の仕方を書きなさい」とステップを設けて考えさせるほうが、生徒は考えやすいということである。しかし、時間がかかる。生徒の発問や指示に対する反応はものすごくいい。ペンが動く。「気づいたかを書きなさい」だけでは、なかなか書けなかった子も書ける。「最後の関連づけて」の発問に対する答えも書ける。ステップを設けてあげると、答えを書きやすいのだなと感じた。


発問に対する答えを書く時に、視点を明確にすることと、ステップを設けることで生徒は答えを書きやすくなるが、時間がかかってしまう。これが今の課題である。授業の進むペースが落ちた。今度はこの課題を解決しなければならない。

1665 発問に対する生徒の反応

自分の授業の中での発問をして、ノートに書きなさいと指示を出した後の生徒の反応が大きく分けて4つに分かれる。その反応から少し考えたこと。予想したこと。


①凍りつく

→自分も凍りつく。沈黙。もう一度説明をしたり、補助発問をしたりする。しかし、効果なし。生徒の思考可能レベルを超えている。全くわからない状態。思考の放棄につながる。


②書けそうで書けない

→思考活動はあるが、文字としてアウトプットできない。発問に至るまでの展開のまずさがある。用意したステップが1段か2段足りなかった状態。


③少し間があって書き始める

→生徒の思考可能レベルよりもほんのわずかに高いレベルの発問。しかし、頑張れば回答できる。この頑張りによって、回答できるかできないかが変わる。本来、頑張れる生徒でも、夏の体育の後など、状況によっては思考を放棄することがあり、回答を書かないことがある。ただ、考えて書けたという達成感を最も味わえる。


④すぐに書き始める

→わかる。回答に必要なステップがしっかり用意された展開の後の発問。もしくは、すでに知っていること。表や図を見て情報を読み取れる。自分の回答をすぐにまとめられる。そのくらい理解している。わかっている。


生徒の反応がいろいろ教えてくれる。生徒の反応がいろいろと考えさせてくれる。


今日は①があった。これはなくしていきたい。


1664 ヒットを積み重ねる

先日読破した有田和正先生の本の中に、教材開発、教材研究について書かれている部分があった。


その中の1つを引用する。


(引用開始)


教材開発、教材研究では、ホームランをねらってはいけない。それなのに「一発ねらい」をする人が多い。教材開発強化法は、コツコツと努力を積み重ねていくことだ。


(引用終了)


毎日の試合でホームランを打てるプロ野球選手はいない。もちろん、ここぞというところでは、ホームランをねらうのだろうが。


ホームラン数が30本のA選手と、ホームランが20本のB選手を比べた時に、「一発」の数を見ると、A選手が多いが、ヒットを含む打率はB選手の方がいいということもある。


プロなのだから、打率10割というのは当たり前かもしれないが、ピッチャーも打たせない球を投げるプロである。プロ同士の対決なのだから、どうしても、10割とはいかない。


では、教師の話。


日々の授業中に毎時間ホームランを打つことは難しい。できる先生もいるかもしれないが、今の自分にはできない。


おそらく、これができる方はほとんどいないのではないかと思う。結果を出されている先生や優れた実践を行われている先生方は、ヒットを積み重ねているのではないのかと思う。もちろん、代名詞となるようなホームラン授業をできる先生もいる。


野中信行先生が提案されているご飯と味噌汁の授業は、ヒットを毎時間打てるがような授業ではないかと思う。


ホームランを打てる教師でなくても、ヒットを毎時間確実に打てる教師でありたい。そういう授業を今の自分の段階では目指すべきだと思った。


ヒットも打ててないのに、ホームランを狙った教材開発、教材研究を行なっていた。だから、毎時間の授業を創るのが苦しかったのだと思う。


もちろん、ヒットを打つことも簡単ではないが、ホームランに比べるとハードルが下がる。いきなり「一発」をねらわず、コツコツとヒットを打てる力量を身につけられるようになりたい。


こう考えると、少し肩の力が抜ける。それは、気が抜けるということではなく、いい余裕が生まれるということである。この余裕があれば、授業を考え、創るのが楽しみになる。子どもたちのことをより考える余裕が出てくる。発問の言葉や、発問に至るまでの布石をより子どもたちの感覚に近づけられる。