1663 教師塾再開

コロナウイルスの影響で自粛が続いていた佐世保教師塾が今月末から再開することになった。


同じ空間に複数人が集まることに心配や不安もあるが、楽しみである。


zoomなどでの開催も考えられるし、それが現在の社会の中では中心で、当たり前にもなりつつあるが、同じ空間に集まって学ぶことはには変えられないと思う。画面を共有しての学びと同じ空間での学びには違いがある。メンバーが同じでも、学ぶ内容が一緒でも違いがある。空間を共有することが大切なのだと思う。雰囲気の共有など、画面を通してはできないものなどがある。


私も提案の時間をいただいた。しっかりと準備したいと思う。当日は学びも提案も楽しみたい。


1662 「ただ楽しいだけの時間」を取り入れる

自分自身の授業の中に足りないもののひとつに、「ただ楽しいだけの時間」がある。


どうしても授業なので、す生徒の活動や教師の発言など50分間の全てに知的な意味づけができないといけないと思ってしまう。


もちろん、それは当たり前で、なんらおかしいことではない。しかし、知的な面白さや楽しさだけではいけないとも思う。


自分自身の授業を振り返った時に「ただ楽しいだけの時間」がないなと感じる。相手は中学生といえども子どもである。授業の中に「ただ楽しいだけの時間」が少しあってもいいのではないかと思う。


そのたった3〜5分の「ただ楽しいだけの時間」が、残りの47〜45分の知的な時間を有効なものにさせると思う。


生徒全員が全員知的なことだけの授業を求めているわけではない。(国や県、市などは求めるだろうが)学びがきちんとあれば、楽しい時間があってもいいのではないか。そんなことを思う。


楽しいと思えないものに、子どもたちが魅力を感じることはないだろう。それは、大人も一緒。夢中になる、自分から学習する、そこには楽しさがある。その楽しさを知的なものとそうでないもので構成すると、もっと生徒たちは社会科の時間を楽しめるのではないのか、そんなことを考える。比率は重要だが。


主体的・対話的で、深い学びは大切。でも、日常の授業ではこういうことも大切。


少しずつ、授業改善をしていく。


1661 12冊目『有田和正の授業力アップ入門』

2020年50冊読破目標の12冊目。


有田和正先生の『有田和正の授業力アップ入門ー授業がうまくなる十二章ー』(明治図書 2005)読破。


講師として、実際に授業をするようになってから、教育書の読み方が変わったと思う。


自分の今の授業に何が足りないのか、問題点をどうやったら改善できるのか、そのヒントになる場所や、その問題が発生する原因が書かれている部分に目がいくようになった。


有田先生のこの本の中では、ただの理論の展開や実践技術の解説だけにとどまらず、1人の社会人として、大切にしなければならないことなども含めて、授業力を高めるために大切なことが書かれてあった。


この本の中で紹介されている生徒たちがとても生き生きと社会科に取り組んでいる様子が想像できた。普通の公立学校で、テストの点数が低い子でも、生き生きと取り組めるような授業をしたいと思っている。


昨日の記事のように、一文一文から多くのことを感じ、考えた。


この本からの学びをしっかりと実践の中に取り入れていけるようにしたい。そうでないと、読んだ意味がない。


1660 教える内容と教え方

有田和正先生の本を読んでいる。読破したので、感想は明日の記事で書こうと思う。この本の中で、有田先生が『学力が危ない』(岩波新書)から次の一文を引用されていた。


(引用開始)


教師は教え方のプロではあるが、教える内容のプロではなくなってしまっている。


(引用終了)


この一文を引用された後に有田先生が次の一言を書かれている。


(引用開始)


教える内容をもっていて、始めて教え方の工夫ができるのだ。


(引用終了)


最近、授業を創る段階で痛感していることがそのまんま書かれていた。


これまで、様々なセミナーに参加したら、教育書を読んできた。そこで学んだことのほとんどは教え方なのであったと、講師をやり始めて2が月がたったくらいの今、気づいた。


セミナーで示される授業のつくり方や実践技術は、教える内容を書く教師が深く知っているという前提で展開されている。


つまり、教える内容については、各教師がよく理解して知っているけど、それを生徒に教える時、授業する時にうまくいかないから、授業の創り方や実践技術を教えますというものである。


もちろん、教える内容のについての提案や主張もあるが、どうしても、教え方、授業の創り方に目がいってしまう。


その結果、指導法ありきでの授業創りを行っていた。技術は目に見える。言葉として聞こえる発問の一つ一つや、指示の一つ一つは耳で聞こえる。だがら、それがどうしてそういう技を考えられるのか、どうしてそういう発問を考えられるのか、指示を出せるのかという部分に意識がいってしまう。そして、その技術で子どもが授業にのっているから、発問でよく考えるから、指示できちんと動くから、なおさら、目に見える教え方の部分に意識がいってしまう。


しかし、その発問や指示、実践技術は全て素材研究と教材研究(教える内容を教師が深めること)があって、機能するのだと思った。


野口芳宏先生が主張されている、素材研究50%・教材研究30%・指導法研究20%の大切さを理解できた。


指導法をたくさん知っていること、創り出せることはたしかに大切なことである。ないよりある方がいい。少ないよりも多い方がいい。これは間違いない。目の前の子どもによって機能する指導法は変わる。


しかし、素材研究と教材研究で身につけた知識や理解は目の前の子どもが変わろうと変える必要がないことである。


変えなくて良いものは素材研究と教材研究で得られた教える内容。


変えなければいけないものは、指導法という教え方。


今の自分に必要なことは、教える内容をもっと正確に理解して、深め・広げること。素材研究・教材研究という教える内容の勉強に充てる時間をもっと増やしていこうと思う。




1659 思考帳

思考帳をつくった。頭に浮かんだことや考えたことを文字化していこうと思う。


何かを考えている時に、考えてすぐにアイデアが浮かぶわけではない。ブレーンストーミングをしても、行き止まることや、アイデアが出尽くすことはある。でも、少し時間を置いてから、また考えると、プラスのアイデアや違った観点からの発想ができることがある。


それをまとめていく時に、メモが必要になってくる。ゴチャゴチャしたアイデアの素材から、人に提示できるまとまったクリアな思考にするためには、まずは思考の素材、アイデアの素材、発送の素材を集めなければいけないと思う。


その素材は、意識して考えている時にも集めることができるが、意識していない時にふと頭に浮かんできたり、自分の外にある何かに触れた時に、いきなり思考が動き出すこともある。


それを忘れないためにこの思考帳に書き出そうと思った。忘れないように、頭の中を文字化して残していくためのノートである。人に見せるものではなく、自分が後から見直したときに、「あぁ、たしかにこんなこと考えたな」と思い出せればいい。自分のためのものである。だから、乱雑で、誤字脱字や表現が少々おかしくても、ガンガン書き出していく。それでいい。人に見せるためのものではない。思考・発想・アイデアの素材を忘れないためにということがこのノートを書く目的である


今までは裏紙を使っていたが、それではバラバラになる。だがら、ノートに書こうと思った。途中までしか使っていないノートがあるから、それを使おうと思う。


もちろん、定期的に整理していく。そうやって、自分の思考をクリアにしていこうと思う。


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1658 文字の練習

勤務校の校長先生に教採の論文を読んでいただいた。いろいろご指導いただく中で、文字についてのコメントをいただいた。


文字の練習をするべきだと。物凄い失礼なことを言って申し訳ないけどとも。


自分も全く同じことを思っていたのでその通りだと思う。1回、練習していたが、それもいつのまにか辞めてしまっていた。


いい機会だと思う。今後のために練習を再開する。


人に見せる文字はやはり美しい方がいい。


綺麗な字にはやはり感動することがある。こんな字が書けたらいいなと思うこともある。


パソコンで打つ字ではなく、人の手から生み出された字には美しさを感じることもある。


それに、1回身につけば、今後もずっ自分のものになる。長い目で見て頑張ろうと思う。

1657 児童の優しさ

勤務校は小中学校なので、小学生も中学生も同じ校舎で学んでいる。


昼休みは教員も子どもも同じ場所で同じ遊びをする。自分が勤務の日以外も毎日ように遊んでいるらしい。


今日も遊ぶ時間になった。数日前から1人の先生が足を怪我されて、体育館で遊ぶようなスポーツはできないことを小学生の子が知っていて、その先生も楽しめるトランプを提案してきた。


優しいなと思う。みんなが楽しめる遊びをさらっと提案できることがさらにこの子の良いところだと感じた。


その先生も察したらしく、ありがとうとお礼を言っていた。そのありがとうの一言が心からのお礼なんだなと聞いてて感じた。


たったこれだけのことでと思われるかもしれないけど、やっぱり教師という仕事はいい仕事だと思う。