1832 対話と議論ばかりを求めていないか

1週間前に勤務校とは別の学校で社会科の授業を参観させていたただきました。今週は一つ前の記事にも書きましたが、ICT機器を使った2校合同道徳の授業を参観させていただきました。


2つの授業の参観レポートに書いたことで共通したいことの1つに「思考を刺激する発問(深い思考を促す発問)がなかった」といのがあります。


社会科の授業参観では、一見、生徒は活発に活動をしているように見えました。しかし、知識や思考という部分で見ると、知識を定着させる教師の働きかけがなかったり、思考を刺激する発問がありませんでした。生徒に調べたことをまとめさせて、お互いに伝えあったりするなどの活動は取り入れられていました。これ自体は私も取り入れたいなと思っていますので、その点では大いに参考になりました。しかし、生徒同士が自分の考えを交流させるなどの活動はありませんでした。「思考のない対話的な学び」が授業の中心だったと思います。思わず考えてしまうような発問があったり、どうしても解決したくなるような課題の提示があったときに、思考や活動はより主体的になるのではないでしょうか。そして、そのレベルで行われた思考と活動の結果は、生徒にとって発表したいものでしょうし、クラスメートの思考と活動の結果も気になるはずです。そうなると、深い学びにつながる対話的な学びが機能するのではないのかなと思いました。


次に参観した道徳についてです。社会参画、公共の精神を扱った授業でしたが、授業の中で使用されていたICT機器的な話を抜きにすると、道徳ではなく、社会科の授業だったなと思いました。発問が社会科であり、活動が社会科であり、教師の説話や提示された資料が社会科のものだったのです。この授業後の反省会でICT機器で繋がれた2校の学校の学級担任(授業者含む)、教頭、校長での授業研究がありましたが、全員「議論する時間が、、、」「もう少しこういう点について議論をさせた方が良かった」というような議論の部分に視点を置いた反省やコメントが出ていました。おそらく、「考え、議論する道徳」の議論する道徳を重視しているんだろうなと思いました。考える道徳の部分についての意見はありませんでした。つまり発問の良し悪しや生徒の思考活動に対する発言は誰からもなかったということです。授業の最初の最後で同じ発問をし、意見の変化を確かめるような構成でしたが、生徒の出した答えは何も変わっていませんでした。おそらく、深い思考がないまま議論をさせたためだと思います。「考え、議論する道徳」は「考え・議論する道徳」ではありませんから、考える部分と議論する部分は段階が異なると思っています。考えた後に、それをもとに議論をするというのが私がイメージしている「考え、議論する道徳」です。これも、思考を刺激する発問(深い思考を促す発問)が必要になります。このような発問があって、深く考えて出した答えがあるので、議論が活発になり、議論の結果、認識や考えが深まったり、新たな視点を持てたり、新しい見方をも出たりするのだと思います。自分の発表を聞いてほしいと思うのだと思います。また、人の考えを聞きたいと思うのだと思います。


知識も思考活動もちゃんと学習指導要領に書いているのに、現場の先生方の意識は「活動」「対話」「議論する」などに行っているような気がしました。


「アクティブラーニング」という言葉が与えた活動的な印象は、「主体的・対話的で深い学び」という言葉に表現が変わっても、その印象を大きく変えていないのではないかと思いました。


そんな現場の中で自分はどう授業を構成し、実践していくべきでしょうか。そもそも、自分の考えの方がおかしいのかなとも少し迷う最近です。