725 衝撃的な一言

「お前も早く教師になれよ」


前後の文脈が無くても、上から目線の一言であることはわかる。これを、私と同じ年の人が、私のいないところで、私に向かって言っていたらしい。


ちなみに、これを言った人は正式採用の教員では無く、常勤の講師という立場である。


私の師匠からも、このようなことを言われたことはない。ちなみに師匠は30年以上の教職経験のある方である。その方でもこんな上から目線の言葉を発しない。


怒りとか、悔しさとかそんな感情ではなく、ただただ驚いた。


言った人は、自分の立場を勘違いしていないだろうか。正式教員ならば、まだわかる。しかし、そうでもないのに、講師をしているというだけで、講師をしていない私にこういう言葉を発している。講師はそんなに偉いのか。そんなに立場が上なのだろうか。


それに、そもそも先生と教師の違いを理解していない。その人は私と同じ年である。ということは、まだ講師をして1年も経っていないのである。単純に、考えても、教職生活が短いのに、自分を教師と捉えている。教師とはそんな短期間でなれるものだろうか。現場に立てば全員教師なのだろうか。


おそらく、これを言った人は、そんなつもりじゃなかったとか、そこまで考えてなかったというかもしれない。


しかし、私は、そんなつもりになったし、そこまで考えたのだ。考えたというよりも、そう感じた。このことを聞いた時に、えっ⁉︎と本当に驚いた。耳を疑うという表現を正しく使える状況に初めて遭遇した。


私も人のことをどうこう言えるわけではないが、この人よりは、他者への想像性をもって言葉を選び、発している。


時には、相手がどう思うかだけではなく、意識して、その場にいる人はどう思うかという第3者への想像性まで働かせる時がある。


しかし、私も完璧ではないから、改めて気をつけようと思えた。なんだか、私も偉そうなことを言っているな。でも、本音を書けばこんな感じになる。


追伸:このブログへのアクセス数が3万回を超えました。いつも読んでくださっている方に感謝します。直接会って話をする時に、このブログを話題にしてくださることはとても嬉しいです。また、メールをくださる方にも感謝します。ありがとうございます。これからもよろしくお願い致します。

724 37冊目『キスまでの距離 おいしいコーヒーのいれ方Ⅰ』

2017年50冊読破目標の37冊目。


村山由佳さんの『キスまでの距離 おいしいコーヒーのいれ方Ⅰ』(集英社 1999)読破。


いろんな本を読むようにしているんだけど、読む本のジャンルって結構偏る。教育書についても、なんとなく偏っている。実用書も偏っている。小説も偏っている。


小説は、この本もそうだけど恋愛小説に偏っている。ミステリーとか、興味がないわけではないんだけど、なかなか手が出ない。


さて、内容は、主人公の勝利が、かれんという女の子を好きになる話。かれんが勝利の5歳年上。しかも、かれんは、勝利が通う高校の美術教師。2人の母親が姉妹ということもあって、ただの教師と生徒って関係ではない。


途中までは、淡々とストーリーが進んでいっているように感じて、面白いとは思わなかったのだけど、途中で、「えっ⁉︎」と思うところがあって、そこから少しずつ面白くなったなって思う。


でも、なんだろうな。あまりにも若い恋物語のような気がして、中高生ぐらいの時に出会いたかった一冊かなって思った。


おいしいコーヒーのいれ方 (1) キスまでの距離 (集英社文庫)

おいしいコーヒーのいれ方 (1) キスまでの距離 (集英社文庫)


723 第17回佐世保教師塾

一昨日、研修が終わった後に、佐世保教師塾に参加した。


月に1回、開催されている無料の教師塾で、現職の先生方や私のような教員志望生が学んでいる。


前半の1時間は、N先生からボトムアップ理論を用いた部活動経営についての実践報告があった。トップダウン型や指導者がぐいぐい引っ張る型の部活動経営をやっていないのに、しっかりと大会でも結果を出していることがすごいと思った。指導者が檄を飛ばし、大声を出し、ガンガン練習をさせるというタイプの部活動に疑問を持っているので、N先生の部活動経営の実践は本当に勉強になる。


また、勝利のみを追求しないという点についてもお話があったが、部活動が部活動である意味がこれだと思う。そもそも、楽しいを2番目以降に置いた部活動ってなんなんだろうなって思う。勝利主義のスポーツ、つまり、結果を重視するのはプロだけで良いんじゃないのかなと思う。勝利主義に走ると、競技技術があまり高くない子が部活動自体を楽しめないし、競技技術が高い子がその子たちに厳しい口調でものを言うようになるんだと思う。そういう場にいたことがあった。


まず、楽しいがあって、楽しいからもっと技術を上げたい、できることを増やしたいと思うようになって、その次に勝ちがある。こんなつながりができると、学校の部活動は良いような気がする。


後半の1時間は、Y先生から、中村健一先生の『策略 ブラック授業づくり つまらない普通の授業にはブラックペッパーをかけて』という本をもとにした授業の指導技術のお話。


Y先生が言われた「普通の授業を普通にできる教師になれ」という言葉は、最近よく頭に浮かぶ言葉。すごい授業なんて今の自分にはできない。普通とかすごいってのがどういうことか、まだうまく説明できないけれど、なんとなくわかってもらえると思う。すごい授業よりも、生徒が、この先生の授業は、ちょっと楽しみとか、少し面白いとか思ってもらえたら、それで良いと思っている。まぁ、生徒側のストレートな言葉を使えば、マシな授業って感じかな。少しとか、ちょっととか、マシってところが自分の中のポイント。あんまし、毎回の授業に大きな期待を持たせるさせるようなことはできない。それが、今の自分だと思う。だから、このちょっととか、少しを年間105時間(1、2年生の社会科)、年間140時間(3年生の社会科)続けられたら、今の自分のレベルでは十分な気がする。もちろん、妥協せず、一つでも上のレベルを求めていきたいんだけど、求めすぎると背伸びをしてしまうことになるから、こんな感じかなって思っている。


中村健一先生の「授業は子供にとってつまらないものである」という言葉があるから、そして、中学校で授業を観て、さらに、実際に中学生相手に授業をしたからこんなふうに思えるようになったかなって思う。


楽しい授業とか、面白い授業を求めるっていう人は多いけど、知的な面白さばかりを求めていないかなって思ったりしている。自分もそうだった。でも、Y先生とか、中村健一先生に出会って、知的な面白さばかりではダメだと思った。


少し、遊びの時間というか、本当にたわいもないことで笑う時間が必要だと思う。冗談を言ったら、ギャグを言ったり、そんな時間が1分、2分あることも大切だと思う。こういうのも、自分はあまりやってこなかったから、なかなか難しいんだけど、やってみると楽しかったりする。


中村先生の本の中から、Y先生が指導技術の紹介をされるだけではなくて、Y先生が解説をされるところがとても勉強になる。同じ本を読んでいても、自分とY先生では、読める深さが違う。自分が読みきれなかったことを教えてもらえたのが勉強になった。


今日の学びを、現場に出た時に活かせるようにしたい。

722 飛び込み道徳を参観して

昨日は、週に一度の中学校現場研修だった。


午前中に、社会科を1時間参観した後、2時間目から4時間目まで、別の中学校へ行った。


Y先生が行った先の学校で飛び込み道徳をされるとのことだったので、着いて行って参観した。


授業を観ながらいろんなことを思ったのだけど、1番強く感じたのは以下のこと。


・どんなに優れた発問を考えても、どんなに良い資料を使っていても、生徒を授業に乗せることができなかったら、その効果は十分に発揮されない。


授業の準備も振り返りも大切。だけど、1番大切なのは50分間の授業時間。


だから、良い発問を考えたり、良い資料を使うだけではなく、50分間の中で生徒を授業に乗せる指導技術や雰囲気作りの力ってのが絶対に必要だと思った。


そのための具体的な仕掛けや方法をたくさん見れたことが大きな学びだった。


721 研修と教師塾

今日は、週に一度の中学校現場研修だった。


少し、いつもと違ったのは、途中で別の中学校に行ったこと。Y先生の飛び込み道徳を参観するためである。


この飛び込み道徳を参観して、たくさんのことを感じたし、考えた。これについては、また明日以降に書こうと思う。


夜は、月に一度の佐世保教師塾に参加。今日は、N先生から部活に関する話と、Y先生の授業に関する話。これも、詳しくは明日以降に書こうと思う。


今日は、本当に刺激的な1日だった。自分の頭の中に浮かんだことを今まで以上にしっかり文字化したのが大きいのかもしれない。


720 常態で書いていこうと思う

前に一度、このブログを常体で書いてみた。それまで敬体で書いていたんだけど、書きづらいなと思って常体で書くことを試してみた。


それでも、書きづらいなと思い、そこからまた敬体に戻して、今まで書いてきたんだけど、また常体で書いてみようと思う。


もしかしたら、明日にはまた敬体に戻ったりするかもしれない。それは、今日書いてみた感じだとか、気分だったりする。気分ってところが自分らしいなと思うのだけど、それはそれでいいような気がする。


誰かに何か訴えることがある時は、敬体の方が書きやすい。自分の教育論とかを述べるとき、何かを主張する時などがそうかな。それは、読み手を意識するからだと思う。


でも、まだ自分には教育論とか言えるほどのものや、主張とかはない。


どっちかというと、何かの体験や誰かの教育論、主張から感じること、思ったこと、考えてたことが、自分の中に溜まっていく感じである。


それを、書くときには、やっぱり常体の方が書きやすい気がする。


こういうわけで、今日から常体で書いていこうと思う。

719 学校の授業について考えたこと

私が中学生の頃、ある教育教材会社のセールスマンが家にやって来叩きに、「100ページの教科書の中から、入試に必要なことを抜き出すと何ページになると思う?」と聞かれました。


正確に覚えているわけではありませんが、答えは「8ページ」ぐらいだそうです。


その時は、高校入試に合格したかったので、とてもお得な問題集に見えました。


今、ある会社の教科書を使いながら、来年の教員採用試験の社会科の試験の勉強をしています。


8ページほどかはわかりませんが、確かに、入試問題でよくみかける内容に関することは、そこまで多くはないと思います。


中学校を卒業すると義務教育が終わると言っても、多くの生徒は高校進学を目指しますから、入試をまったく意識せず、授業を行うことはできないと考えています。


しかし、入試ばかりを意識しすぎると、それは、塾の講義となんら変わらないものとなってしまうような気がします。


教科書の本文を見ていくと、太字になっていない文章や、太字になっていても入試問題ではあまり見かけないものもあります。


これらは入試には出ないかもしれませんが、これからを生きていく上で、知っておくべきことだと思います。なので、授業で、しっかりと教える必要があると思いますし、このような部分をもとにして、何かを考えるという活動などを授業の中で行うことは必要なことだと思います。


このようなところに、進路を実現するための効率の良い学習をする塾ではなく、学校の授業が存在する意味があるのだと思います。


これまで、高校や大学の入試、教員採用試験、各学校段階での試験を受けてくる中で、私の勉強自体が試験対策型の勉強になっていました。試験が多く実施される環境の中では仕方のないことかもしれません。最近、じっくりと教科書を読む中で、試験に出ないことでも、教科書に書いてあることには大切なことがたくさんあると気づきました。気づくのが遅いのでしょうが、現場に出る前に気づけたことは良かったと思っています。


そこを授業の中で削ぎ落としすぎないようにしたいと思います。


こういうことは、当たり前なのかもしれませんが、最近、やっと考えられるようになりました。


まだまだ授業の意味とは何かなどに対する考えが浅いところがありますが、少しずつでも深めていきたいと思います。