527 18冊目『偽善のすすめ』

2017年50冊読破目標の18冊目です。

パオロ・マッツァリーノさんの『偽善のすすめ』(河出書房新社 2014)読破です。

偽善というと悪いイメージを持つ人が多いと思います。

私もそうでした。

しかし、「しない善より、する偽善」と考えると、偽善が絶対悪いとは言えません。

これを以下の例で説明します。

全ての席に誰かが座っているバスにお年寄りが乗ってきました。

このような状況に出くわした時、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんは以下のような対応を取ります。

Aさん
お年寄りをみて、立っとくのはきついだろうからと、心からお年寄りのことを思い、席を譲った。

Bさん
本当は譲りたくないけど、譲った方が周りからよくみられるという計算をして席を譲った。

Cさん
お年寄りが立っとくのはきついだろうなと思ったけど、声をかけきれずに席を譲らなかった。

Dさん
席を譲るのがめんどくさいと思い、寝ているふりをした。

みなさんなら、どの人と同じ行動をしますか?
また、どの人の対応を素晴らしいと思いますか?

この本では偽善に注目しています。4人の中で偽善的な対応をしたのはBさんです。心の中は違いますが、同じく席を譲るという対応をしたAさんと比べると、Aさんの行いの方が素晴らしいと感じませんか?

しかし、それは、この4人の心の中を文字化してわかるようにしているからです。

人の善行の真意は見た目だけではわからないのです。Bさんでも、どんな気持ちで席を譲りましたか?と聞かれれば、お年寄りのためを思って!と答えるでしょう。

人によくみられたいと計算して席を譲る人ですから、当然答えもそうなります。

つまり、真意は本人にしかわからないのです。

それに、お年寄りにしてみれば、どんな気持ちであっても席を譲ってくれたAさんとBさんの行いは善行に見えるでしょう。

どんな気持ちで席を譲ってくれたにしろお年寄りは座ることができたのですから。

Cさんが思っていることも善意的です。しかし、Cさんは席を譲っていませんから、お年寄りは立ったままです。座れていません。

ということは、心の中は見えないのだから、お年寄りにはCさんに対してもDさんに対しても同じバスに乗っていた人としか思われないのです。というよりも、あ、一緒のバスに乗ってたの?というぐらいの認識のはずです。

BさんとCさんに注目します。2人は席を譲った偽善者と、譲らなかった善意ある人です。Cさんの方が内面は立派ですよね?しかし、内面が立派でも、お年寄りのためにはなっていません。つまり、行動が伴っていないということです。

長くなりましたが、BさんとCさんの例が「しない善より、する偽善」の例えです。

このようにいうと、気持ちなんていらないから行動しろと言っているように思われそうですが、偽善ばっかりの人も、行為を行っているなら、その人の中に善意のかけら以上のものがあるのです。

そのかけらすらない人は偽善すら行わないのです。

表紙には10代からの倫理学講座とありました。倫理学の講座でしかも、10代に偽善を進めています。

なるほどなと思えるのですが、10代にそのまま読ませるのはちょっとな。内容をしっかり吟味しながら読める人が読んだ方がいいかもしれないなとも思いました。

私がそれができているかはわかりませんが。